被爆者が本当に言いたかったこと

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1945年、昭和20年、8月。広島と長崎に相次いで原子爆弾が投下された。あれから78年、被爆者の平均年齢は85歳を超えた。被爆体験を話せる人が少なくなっている。被爆者がいなくなった後、被爆の実相を誰が、どうやって次の世代に語り継いでいくのか、大きな課題だ。そんな問題に答えてくれる本が出てきた。
本のタイトルは『ピースガーデン ……継承の庭…… 』。著者はフリーランスの山中茉莉さん。満2歳の時広島で被爆した著者とその家族の記録が克明に記されている。

けがや建物だけではない被爆の被害

被爆と聞くと、戦争も原爆も知らない人たちの関心は、自然と被害の実態に集まる。広島の原爆ドームや長崎の浦上天主堂などをはじめ、建物の被害は写真などで有名だ。黒焦げになった遺体や、ケロイドと呼ばれる皮膚の大やけども知らない人はそんなにいないだろう。

しかし、被爆者にとっての被害は、こうした破壊された街の風景やけがの程度だけだろうか? こうした被害は一時的なもの、といったら被爆者に怒られそうだが、被爆者は戦後の貧困や食糧難にも耐えてきた。しかし、耐えられなかったものがある。それは白血病やがんなど、いつ発病するかわからないといわれる健康への不安、そして結婚・就職などの差別だろう。

『ピースガーデン』でも、被害の様子はこれでもかと言わんばかりに描写されている。被害の実態を知るためだけでも本書を読む価値は十分ある。しかし、一読して印象に残るのは、こうした被害ではなく、被爆者の心に重くのし掛っている差別などの問題だ。本書には被爆者がこれまで生きてきたさまざまな思いが詰まっている。2家族の話にとどまらず、それぞれの時期の社会全体の雰囲気が伝わってくる。

2歳で被爆した著者に当時の記憶はないという。母や叔母、祖母から当時の様子を聞いて育った。「記憶のない幼児被爆者」と呼ばれている。

「被爆」を隠すのが親の役目

昭和32(1957)年に原爆医療法が制定され、被爆者手帳が交付された。しかし、幼児被爆者の親たちの中には拒否する人も多かった。親たちが子どもたちのためにできることは、被爆したことを証明することではなく、「隠すこと」だったという。

著者の母親は、被爆体験を生涯にわたって話し続けてくれたが、著者自身のことは全く話に出てこなかったそうだ。

著者が上京したのは昭和39(1964)年、21歳の時だった。出版社に編集者として採用された。当時、編集者は大学卒業が必須条件だったが、上司は「学歴は後払いでいいから、先に実力をつけてフリーになりなさい。しかし、将来、必ず勉強して”学位を修得し、借りを社会に返しなさい“」と指導したという。

この言葉を胸に刻んだ著者は令和5(2023)年、満80歳で放送大学の全コースを終了し、6つの学位を取得している。

被爆者の証言は「祈り」

著者の山中茉莉さんは、最近は「最後の被爆者」世代の語り部として、学校を中心に証言活動を行っている。

“被爆体験を継承するということは、未来の畑を耕すこと。耕した畑に未来の種をまき、幸せの花を咲かせ、祈りの実をつけ、そして種になり、平和を願う人々の心の庭に芽を吹く……”

『ピースガーデン』を出版した動機について、山中さんは次のように書いている。

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被爆者の証言は「祈り」なのです。
明日を生きる若い人たちに、平和の尊さを知って欲しいから、そのために戦争の愚かさ、核兵器の恐ろしさを語っておきたいと思いました。できれば戦争も原爆も過去の話ではなく、目の前の危機として捉えて欲しいと願っています。
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